歎異抄を読もう その4(第14章から第15章)


第十四章 念仏滅罪の異義・称名は仏恩報謝
【本文】
一 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、はじめて善知識のをしへにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆゑは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。 この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。そのあひだの罪をば、 いかがして滅すべきや。罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。
(『註釈版聖典』八四五〜六頁)

【現代語訳】
一声のお念仏によって、八十億劫という長い間迷いの世界で苦しむほどの重い罪が消えると信じて念仏を申せ、という主張について。 この主張は「観無量寿経」に、十悪や五逆という重い罪を犯し、日ごろ一声の念仏も申したことがない罪人であっても、まさにこの世の命が終わろうとするときに、はじめてよき師の導きを受け、一声の念仏を申すならば、八十億劫もの間苦しむ重い罪をも消し去り、十声の念仏を申すならば、その十倍もの重い罪をも消し去って、浄土へ往生することができる、と説かれるのによったものでしょう。 これは、十悪や五逆の罪がどんなに重い罪であるのかを知らせるために、一声の念仏とか、十声の念仏といっているものと思われます。お念仏の数によって、滅罪の利益を主張する考え方は、私どもがいただいているお念仏の信心とはまったくかけ離れたものです。 その理由は、阿弥陀如来の智慧の光明に照らされて、ご本願を信じてお念仏を称えようという思いの起こるとき、 私どもが・・(中略) ・・・。 すべての衆生を必ず摂め取ってお捨てにならないという阿弥陀仏の本願を信じ申したならば、どんな思いがけない縁にもよおされて罪をおかし、念仏を申すこともなく生命が終わろうとも、ただちに浄土へ往生することができるのです。 また、いままさにさとりを開こうとするときが近づくにつれて、自然と念仏を申すようになるのも、それは阿弥陀仏の本願を信じ、そのご恩を慶び、感謝申しあげる念仏でなくてなんでありましょう。 念仏を申すことによって、罪を消そうと思うのは、まさに自分の心をたのみとするものであり、生命が終わろうとするときに心をとり乱すことなく、一心に往生を願おうとする人の本心でありますから、自カの念仏であります。だからその念仏には他カの信心が欠けているといわねばなりません。

【この章のコメント】 この条でとりあげられています異義は、「一声の念仏によって、八十億劫もの長いあいだ、迷いの世界で苦しまねばならない重罪を消すことができる、と信じて念仏をはげみなさい」とする考え方が、念仏者たちの中に存在したことによるものでしょう。 このような異義が出てくる背景には、現代語訳にも示したように、「観無量寿経」の「下品下生」の段の経文を、字面から考え、「南無阿弥陀仏と十声称える、その仏のみ名を称えたことで、一声、一声の念仏で八十億劫もの長い間の生死の罪が除かれる」という文言を、一念(一声)より十念(十声)、十念(十声)よりも百念(百声)と、数多くの念仏を称えるほど利益があり、往生ができるとする功利的念仏的に理解したことからの誤解です。 ここは、十悪・五逆という罪が人間にとってどんなに重大な罪悪であるかを知らせんがためのものであり、同時に、阿弥陀仏の本願がいかに広大なものであるかを説いたものであると言われているのです。 そこで編著者・唯円は、念仏を「滅罪の利益(念仏の功徳によって罪を消そうとすること)」とする考え方は、親鸞聖人の教えとは異なり、「いまだわれらが信ずるところ(絶対他カの念仏)におよばず」と指摘して、聖人からたまわった「われらが信ずるところ(他カ念仏の信)」を説示しているのが、この条の趣であります。


第十五章 即身成仏の異義
【本文】
一 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのことに候ふ。  即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。 『和讃』にいはく、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」と候ふは、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。 (『註釈版聖典』八〜頁)

【現代語訳】
「煩悩をもったこの身のままで、現世においてさとりをひらく」という主張(考え)がありますが、この主張は、とんでもない間違いであります。
 現世にでこの身のままで仏になるという「即身成仏」というのは、真言密教の根本の教義であり、三密行という修行の結果得られるさとりなのです。また、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの身心の器官を清らかにするという「六根清浄」の教えは、法華、つまり天台宗の教えであり、四安楽の行という修行によって得られる功徳であります。これらは、どちらも難行の教えであって、すぐれた聖者が修行する道であり、観念をこらしてやっとなしとげることができるさとりなのです。
 これに対して、来生に往生してさとりを開くというのが他力の教えである浄土真宗の根本の教えであり、それは、阿弥陀如来のご本願に素直に信順しお念仏申すことにより救われていくという教えなのです。この教えは、だれにでもできる易行であり、善人か悪人かをわけへだてることなく、すべての人を救う法であります。
 この世において煩悩や罪悪を断ち切るというようなことなど、とてもできることではありませんので真言密教や天台の修行をする僧侶でさえも、現世でさとりを開くことは出来ないので、来生でさとりを開くことを願うのです。ましてや戒律も守れず知恵もない私どもは、阿弥陀さまの本願の船に乗せていただき、迷いの海を渡って浄土の岸まで行くのであります。浄土の岸につけば、煩悩の雲はたちまちに晴れ、さとりの月が速やかに現れて、なにものにも妨げられることのない阿弥陀如来の光明と一体となって、一切の生きとし生きるものを救うことができてこそ、さとりを開いたということができるのです。
 この世でこの身のままさとりを開くと主張する人は、釈尊のように、人々を救うために相手に応じてさまざまな姿を現したり、三十二相八十随形好などといわれる仏の姿をそなえ、自由に教えを説いて人々を救うことができるとでもいうのでしょうか。このようなことが出来てこそ、この世で本当にさとりを開いたと言えるのであります。
 『高僧和讃』の中に、「金剛のように決して壊れることのない堅い信心が、決定するまさにそのとき、すでに阿弥陀仏の慈悲の光の中に摂めとられ、つねに護りすてることがないという、永遠に迷いの六道の世界に戻ることがない救いをくださるのです」とあります聖人のお意は、即身成仏のことではなく、信心が定まるそのときに、すでに阿弥陀仏によって摂め取られているのだから、二度と迷いの世界である六道を輪廻(生まれ変わり死に変わり)するはずはありません。だから、"ながく生死をへだてる"と永遠に迷いの世界を離れると仰せられたのです。このように知らせていただき、了解すべきことを、どうしてさとりだなどと混同したり、さとりだと言い換えていってよいものでしょうか。大変悲しいいし本当に残念なことです。
 「往生浄土の浄土真宗の教えでは、この世において阿弥陀仏の本願を信じ、浄土に往生してさとりをひらき、仏となる教えである、と法然上人から承りました」と、亡き親鸞聖人は仰せになりました。

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第16章以降を読む(作業中)

ご本山より浄土真宗聖典「歎異抄」(現代語版)が出版されましたので、小生の出る幕はなさそうですが、一応読んでくださいね。(~o~)


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