歎異抄を読もう その3(第10章から第13章)


第十条 無義をもつて義とす
【本文】
一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
                (「註釈版聖典」八三七頁)
【現代語訳】
 他力のお念仏は、私の自力のはからいをまじえないで阿弥陀様のはからいにおまかせすることことをもって本義とします。私たちが私たちの頭で考えることも、説明することも、思いはからうこともできないからです、と仰せになりました。

【本文】(中序)
 そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義ともを近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。
        (「註釈版聖典」八三七頁)

【現代語訳】(中序)
 もう昔のことですが、まだ親鸞聖人のご在世のころ、往生浄土の道をお聞かせいただこうと遠く京都にまで聖人をおたずねし、同じ信心をいただいて安らぎ、ともどもに阿弥陀仏の浄土に生まれさせていただくことを喜びあった人々は、聖人のお心をともどもにお聞きになり伝えたことでした。
 しかし、これら人々のご教化をうけてお念仏をすることになった数多くの老若の人たちの中には、親鸞聖人の仰せとは異なる異説を近ごろは多く説いていると伝え聞いております。それらの間違った主張の例をあげると、次のとおりです。


第十一条 誓願不思議・名号不思議
【本文】
 一文不通のともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条、かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。
 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべじ。
(『註釈版聖典』八三八〜九頁)

【現代語訳】
 文字ひとつも知らない人たちが、教えに従いすなおに念仏をしているのに対して、「あなたは、阿弥陀仏の誓願の不思議な力を信じてお念仏しているのですか、それとも阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)の不思議なはたらきを信じてお念仏しているのですか」と言い念仏している相手を不安にし、誓願不思議と名号不思議とのふたつの不思議に関する詳しい説明もしないで、相手の心を惑乱させているものがいる、ということですが。
 このようなことは、よくよく注意をしてはっきりとさせ正しく理解をしなければならないことです。
 阿弥陀仏は誓願の不思議なはたらきによって、心にたもちやすく、口に称えやすい「名号(南無阿弥陀仏)」をお考えになり、「この名号を称えるものを浄土に迎えとろう」とお約束なされたのです。だから、まず阿弥陀仏の大慈悲・大願より起こされた誓願の不思議なはたらきにたすけられこの生死の迷いの世界から出ることができると信じて、お念仏を申させていいただくのも、阿弥陀如来のおはたらきによるのだと思えば、少しも自分の勝手なはからいなどありませんので、そのまま名号を称えるままが誓願のおぼしめしにかなって、真実の浄土に往生させていただくことになるのです。このことは、阿弥陀仏の誓願の不思議を本当に信じ申しあげると、おのずから名号の不思議もその中に備わっていますので、本来「誓願の不思議」と「名号の不思議」とは一つのもので、決して別々のものではありません。
 つぎに、自分勝手な理解や考え方で、善を積むことが往生の助けになり悪を行えば往生の障げになると考えるのは、阿弥陀仏の誓願不思議のはたらきを信じないことであって、自分のはげむ善を往生のための行と考え、お念仏を称えることも自己の善行としているのです。このような人は、同様に名号の不思議なはたらきも信じていないのです。
 このような、誓願や名号の不思議を信じない自力の行者たちも、念仏を称えることで、辺地懈慢・疑城胎宮といわれる仮の浄土(化土)に往生し、そののちに、阿弥陀仏の「果遂の願」(いつかは必ず真実浄土に生まれさせたいという願い)によって、真実の浄土に往生させていただくことができるのです。これこそが名号の不思議な力によるものであります。それは結局の所、そのまま誓願の不思議な力によるものでもありますから、このふたつは決して別のものではなく、ただ一つの一体のものなのです。


第十二条 不足言の義・学問と本願
【本文】
一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
 他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、「われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文候ふにこそ。故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ。かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑をあらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。今の世には、学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられ候ふにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどいひおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷はさんとす。つつしんでおそるべし、先師(親鸞)の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。
(『註釈版聖典』八三九〜八四二頁)

【現代語訳】
 お経やその解釈書を読んで学問をしない者は、浄土に往生することができないと言って、学問が往生の条件であるかのようにいう者がいます。これは、まったく論ずるにも足りない主張と言わなければなりません。他力のみ教えが真実であることを明らかにしている数々のお聖教には、”阿弥陀仏のご本願を信じて念仏を申せば仏になる”と教えられています。そのほかにどのような学問が往生のために必要なのでしょうか?
 この道理が本当にわからない人は、深く深く学問して、阿弥陀仏のご本願のおこころをわからなければなりません。お聖教を読んで学問をしても、その本当の意味がわからないのは本当に気の毒なことです。文字一つ読めず、お聖教のすじ道もわからないような人が、称えやすいようにと工夫して下さった名号ですから、この教えの道を易行というのです。学問を第一とするのは聖道門であって、この道を難行というのです。学問をしながら心得違いをして、名誉や財欲を満足させようとしている人は、来世での往生はどうなることだろうか?と、仰せられた聖人のご文もあったはずです。
 近ごろは、ひとすじに念仏する人と聖道門の人とが論争をしようとして、「自分の宗旨だけがすぐれていて、ひとの宗旨は劣っている」と主張するものですから、お念仏の教えに敵対する者も出現し、仏法をそしる者もあらわれてくるのです。これではまったく、自分で自分の宗旨を壊してそしりを与えていることになるのではないでしょうか?
 たとえ他の宗旨の人々がそろって、「念仏はつまらない人たちの教えである、その内容が浅く、低級だ」といったとしても、わざわざ言い争いなどしないで、
 私たちのようなつまらない凡夫、文字一つ読めない者が”阿弥陀仏のご本願を信じれば救われる”と聞いて、そのまま信じているのですから、あなた様のように優秀な人には低級な教えと見えたとしても、私たちにとってはこの上もなく素晴らしい教えなのであります。たとえ他の教えの方が優れていたとしても、私自身に受け入れるだけの力がありませんので、私には最適ではありません。私もあなたもこの生死の迷いの世界をはなれることこそが、すべての仏様のお心でありますから、どうぞ私がお念仏を申すことを邪魔しないで下さい。
と、穏やかに言えば、もうそれで敵対心をもってはこないでしょう。そのうえ、論争を行うと、数々の煩悩が起こってくるから、思慮深い者はそういう争いからは遠ざかった方が良い。というご文もあることです。
 亡き親鸞聖人の仰せに、「このお念仏の法を信ずる人々もあり、また非難中傷する人々もいるでしょう”とお釈迦様が説いていらっしゃいます。今、私は南無阿弥陀仏のお念仏の法を信じていますが、中には非難中傷する人もいます。そのことによって、お釈迦様のお説きになったことが真実であったと知ることができるのです。だから、さらに一層にお念仏によって浄土に往生するのは間違いがないと思うべきでしょう。もし万一にも非難中傷する人がいなかったならば、なぜ信じる人がいるのに、非難する人がいないのだろうかと、かえって疑問が沸いてくるでしょう。だからといって、必ずしも人から非難中傷されたいというわけではありません。お釈迦様が事前に、信ずる者もあり、そしる者もあり、といってこのお念仏の法に疑いが生じないように、前もってお説きくだされたことをいうのです。」と仰せられたことでした。
 今の人たちは、学問をすることによってどうしたら人の非難を防止できるか、問答議論をどのように行えば良いのか、ということばかりをただ考えているのでしょう。学問をすることにより、一層に阿弥陀如来のご本願のお心を知らせていただき、大慈悲のご本願の広大さをもわからせてもらって、”こんなつまらない私でも往生することができるのだろうか?”と心配している人たちに、阿弥陀様のご本願には、善悪や浄穢の分け隔てがないということを説き聞かせてあげることこそ、学問した人の価値であるといえるでしょう。それなのに、ご本願のおこころにしたがって素直にお念仏している人に対して、”学問してこそ救われるのである”などと脅す人は、仏法を妨げる悪魔であり、如来の怨敵なのです。自分が他力の信心をいただいていないばかりか、他人までも迷わしているのです。これでは親鸞聖人のお心にそむくことになることを悲しみ哀れみ、また、阿弥陀如来のご本願のお心にそわないことをも悲しみ哀れまねばなりません。


第十三条 本願ぼこりという思い上がり
【本文】
一 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
 よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人は仰せ候ひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ他力にては候へ。『唯信抄』にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。おほよそ、悪業・煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきことか。
(『註釈版聖典』八四二〜八四五頁))

【現代語訳】
一、阿弥陀さまのご本願はどのような悪人でもお救いくださる不思議なお慈悲であるからといって、悪を恐れない者は、「本願ぼこり」といって本願に甘えている人であるから、決して往生することはできない。と主張するものがあります。この主張は、阿弥陀如来のご本願を疑うものであり、善悪はいままでの過去世の業縁の現れだということを心得ないものです。
 善い心が起こるのも、今までの善業に関係しているのであり、悪いことが心に起きるのも今までの悪業に関係しているのです。亡き親鸞聖人は、「ウサギの毛や羊の毛の先に付いているちりほどの小さな罪でも、今までの業縁に関係のないものはないと知るべきである」と仰せられました。
 またあるとき、聖人は「唯円房、私の言うことが信じられますか?」と仰せられたので、「はい、信じます。」と申し上げたところ、「それでは、私の言うことに決して背かないか?」と重ねて仰せられたので、謹んでお受け申しましたところ、「それでは人を千人殺してみなさい、そうすれば必ず浄土に往生することは間違いがありません。」と仰せになりましたが、その時私は、「お言葉ではございますが、この私の器量では千人はおろか、一人も殺せそうにはありません。」と申したところ、「それではどうして、親鸞の言うことに背かないと言ったのですか?このことによって思い知らねばなりません。どんなことでも心に思うままになるのであるならば、浄土往生のために千人を殺せと言われたら殺すことができるはずです。しかし、殺さなければならない業縁がない以上一人も殺せないのです。自分の心が良くて殺さないのではありません。またその反対に、殺さないつもりであっても、百人・千人の人を殺してしまうこともあるのです。」と仰せられました。これは自分の心が良ければ往生ができて、自分の心が悪ければ往生ができないと勝手に思い、不思議なご本願により往生させていただくということを知らないためにおこる誤りへのおさとしのお言葉であります。
 かつて、聖人ご在世のころ、よこしまな考えを持ったものがいて、悪人を救うためのご本願であるから、わざと悪いことをして往生の業因とするようにというようなことを主張して、いろいろな悪評判が聞こえてきたとき、聖人は、お手紙で「毒消しの良薬があるからといって、好んで毒を飲むようなことをしてはいけません。」と戒めてくださったのは、往生のために悪いことをすべきだというような間違ったよこしまな考え方をやめさせるためのおさとしであったのです。だからといって、決して悪いことをしたら往生できないということではありません。戒律を守った者だけが、ご本願を信じることができるというのであれば、私たちのように戒律を守ることのできない者は、どうして生死の迷いの世界を離れることができましょうか? こうゆうあさましい身も、ご本願に出遇い信じることによって、ご本願の確かさを力強く感じられて、本願をあて頼りに力強く生き抜くことができるのです。だからといって、自分に悪を造るべき業縁がなければ、たとえ自分で悪いことを造ろうとしてもできるものではありません。
 また、海や河で網を引いたり釣りをしたりして生活する人も、野山で獣や鳥を捕って生活する人も、商売をしたり、田畑を耕して生活する人も、いずれもみんな同じことです。どうしてもそうしなくてはならぬ縁に会えば、どんなあさましいことをするかわかりません。と聖人は仰せになったにも係わらず、近頃の人たちは、いかにも立派に後生願いのような顔をして、善人だけが念仏するかのように、ときには念仏者の集まる道場に張り紙して、これこれのことをした者は、道場に入るべからずなどということは、うわべの外面ばかり立派な念仏者のような顔をして、心の中には偽りをいだく偽善者ではないのでしょうか。
 ご本願の確かさをほこりにして罪を造ることがあっても、それはその人の今までの業縁によることなのです。ですから、良いことも悪いこともとらわれなく業の報いのままに従って、ただ一筋に確かなご本願にお任せするしかありません。これを他力の信心というのです。『唯信抄』の中にも、「こんな罪深い人間だからとても救われることが難しいと思うのは、阿弥陀如来のお力がどれくらいだろうかと考えているのであろうか?」といわれてあることであります。自分の罪悪を恐れずに確かなご本願にお任せする心があることこそ、本当に阿弥陀如来のお力におまかせする信心も定まることであります。
 おおよそ悪い行いや煩悩を滅してからご本願を信じるといういうのなら、ご本願をほこる思いが無くてもいいでしょうが、煩悩を滅したならば、それは直ちに仏ということになります。すでに仏になった者にとっては、阿弥陀如来の五劫思惟のご本願は無用なものとなるでしょう。本願にあまえて悪を行うとうい本願ぼこりははいけませんよと戒める人々も煩悩や不浄をそなえているようだから、結局のところその人たちもご本願の確かさを誇りに思っているのではないでしょうか? してみれば、どんな悪を”本願ぼこり”といい、どんな悪を”本願ぼこり”でないと区別するのでしょうか? 思えば、本願にあまえる”本願ぼこり”はいけないという主張は、むしろ浅はかな考えではないでしょうか。

念仏の声を 世界に 子や孫に

第14章以降を読む

ご本山より浄土真宗聖典「歎異抄」(現代語版)が出版されましたので、小生の出る幕はなさそうです。(~o~)


仏事相談ホームへ