歎異抄を読もう その2(第6章から第9章)


第六章 親鸞は弟子一人ももたず
【本文】
一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
(「註釈版聖典」八三五頁)

【現代語訳】
阿弥陀仏の本願を信じ一筋にお念仏を修する人たちのなかで、自分の弟子だ、他人の弟子だという争いがあるようですが、それは大きな心得違いです。
親鸞には、自分の弟子と思っている者は一人もいません。
そのわけは、私の導きによって人に念仏を申させているのであれば、その人を自分の弟子ともいえましょうが、阿弥陀仏の導きによって念仏を申しておられる人を、私の弟子であるということは、この上もなくあきれたことです。
一緒に連れそうべき縁があれば共に歩み、離れねばならない縁があれば離れていくこともありますのに、「師に背いて、他の人に従って念仏すなようなものは、浄土に往生することはできない」などというのは言語道断です。阿弥陀如来からたまわった信心を、さも自分が与えたもののように、取りかえそうとでもいうのでしょうか。
そんなことは、決してあってはならないことです。しかし、み教えを聞いて本願他力の道理にかなうならば、おのずから如来のご恩もわかり、また師のご恩も知ることができるのです、と仰せられました。

[第六章のコメント]
 「弟子一人ももたず」という自覚こそが、本当の師としたらしめる所以であり、真の師弟の結びつきもそこから生まれるものでしょう。


第七章 念仏者は無碍の一道
【本文】
一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
(「註釈版聖典」八三六頁)

【現代語訳】
 阿弥陀仏の本願を信じお念仏を申すことは、何ものにも妨げられることのない、生死を超える唯一の大道です。
 その理由は、阿弥陀仏の信心をいただいてお念仏を申す者に対しては、天地の神々たちも尊敬の念からひれ伏し、悪魔や仏教以外の宗教の人たちも、念仏者の生き方をさまたげ、まどわすことができないからです。また、念仏には、どんな罪悪も転じる徳がありますから、罪業の報いを受けることもありませんし、いかなる善行も念仏にまさることはないからです、とおおせられました。

[第七章のコメント]
 念仏者は、この娑婆におけるさわりだらけの人生の中にありながら、そのさわりを超えて生きるというという力強い主張を述べられたものです。さまざまな苦難を乗り越えて心豊かな念仏生活で一生を過ごされた親鸞聖人のおことばです。本願他力の教えを消極的な頼りない者の生き方のように誤解している方は、この自信に満ちた力強いお言葉をご理解いただき誤解を解いてください。


第八章 他力の念仏
【本文】  
一 念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云々。
(『註釈版聖典』八三六頁)

【現代語訳】
 お念仏は、南無阿弥陀仏とその名号を称える人にとっては、行でもなく、善でもありません。それは自分のはからいで南無阿弥陀仏と称えている行ではないので行ではなく、また自分のはからいでつくる善根でもないから善でもないのです。お念仏は私の口から出てきてももともと阿弥陀如来のものであって、称えている人のものではないから、称えている人にとっては行でもなく善でもないとの仰せでした。


第九章 他力の悲願・如来の救いの絶対性
【本文】
一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(と)おもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、裟婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あ(や)しく候ひなましと云々。
(『註釈版聖典」八三六頁)

【現代語訳】
 「念仏を申していますが、天におどり地におどるほどの喜びの心が湧いてきませんし、またはやく浄土へまいりたいと思う心も起こってこないのはどういうわけでしょうか」とおたずね申しあげたところ、聖人は、「親鸞も同じように思っていたが、唯円房、そなたも同じ心であったか。よくよく考えてみると、天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身を思うにつけても、いよいよ往生は間違いないと思います。というのは、喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばせないのが煩悩のしわざです。ところが阿弥陀仏は、このような私であることを前もってお見とおしのうえで、煩悩具足の凡夫であるとおおせられて、このような煩悩具足の凡夫である私たちを救うために大慈大悲心よりおこされたご本願ですから、ご本願の目当てがこのわたしどものためであったと気づかされて、一層たのもしく思われます。
 また、急いで浄土へ参りたいというような思いがなくて、ちょっとした病気にかかっても死ぬのではないかと心細く思うのも煩悩のしわざです。久遠のむかしから、ただ今まで流転しつづけてきた迷いの古里は、なかなか捨て切れず、まだ生まれたことのない浄土は、いくらいいところだと聞かされても、慕わしく思えません。そのことによりよくよく煩悩の強い私であるといわねばなりません。まことに名残はつきませんが、姿婆にあるべき縁が尽きて、どうにもなく命を終わるときには、かのお浄土へ参ればいいのです。いそいで参りたいという心のない者を、阿弥陀仏はとくにふびんに思われているのです。
 それを思うにつけても、いよいよ阿弥陀仏の大悲大願(本願)はたのもしく、また往生も決定であると知らせていただきましょう。
 もし、念仏することにより天地におどりあがるほどの喜びがおこり、早くお浄土へ参りたいと思うようならば、自分には煩悩がないのであろうかと、かえつておかしいと思うことでしょう」と仰せられました。

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