歎異抄を読もうその1(第1章から第五章)
第一章 本願のこころ
【本文】
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。
(『註釈版聖典」八三一〜八三二頁)
【現代語訳】
一、阿弥陀如来の誓願の思いも及ばぬ不思議なちからに救われて、往生を遂げさせていただくことであると信じて、お念仏を申そうという思いがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は大悲の光明のなかにおさめとり、決して見捨てないという救いの利益をいただくのであります。
阿弥陀如来の本願には、老人と若者、善人と悪人というわけへだてはありません。ただその本願の救いをはからいなくお任せするという信心が肝要であると知るべきです。本願が老少、善悪をへだてたまわないということは、深く重い罪悪をもち、はげしい煩悩をかかえて生きる人を、一人残らず救うためにおこされた誓願であらせられるからです。
ですから本願を信じたうえは、往生のために他のどのような善行も必要としません。如来よりたまわった本願の念仏にまさるほどの善はないからです。またどんな悪も恐れる必要はありません。阿弥陀仏の本願の救いをさまたげるほどの悪はないからである、と仰せられました。
[第一章のコメント]
この第一章には、浄土真宗の教えのすべてが要約されています。簡潔に見事に真宗を語りつくされたことばです。
はじめに、阿弥陀如来の絶対的な不可思議のお誓いの力によって私のうえに救いがもたらされるありさまを、信心と念仏と摂取の利益をもって語り、ついで本願の絶対平等の救いは、罪深きものを救うためのものであって、大悲の焦点はつねに煩悩具足のわれらのうえにあわされていることを述べ、われらはただはからいなく素直に本願のこころをいただくばかりであるとのべられます。そして最後にこのような本願の絶対的な救済力の前には、人間の価値観を越えた絶対無限の領域のあることをはっきりとしらせる法語です。
第二章 念仏に生きる
【本文】
一 おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゅゑは、自余の行もはげみて仏に成るベかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふベからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。
(『註釈版聖典」八三二頁)
【現代語訳】
一 皆さんが、十幾つもの国々をこえ、命がけで私をたずねてきたその目的は、ただ極楽に生まれてゆく道を問いただしたいという、ただその一事のためでしょう。
ところで、わたくし親鸞が念仏以外に、往生の道を知っているのではないかとか、あるいは往生に関する特別な教説などを知っているのではないか、と思っているのでしたら、それは大きな誤解です。もしそういうことを聞きたいのならば、南都(奈良の興福寺などの諸大寺)や、北嶺(比叡山延暦寺)には、すぐれた学者がたくさんいますから、その人々にでもお会いになり、往生についての要点を十分にお聞きになるのがよろしいでしょう。
この親鸞は、ただひとすじに念仏して、阿弥陀仏にたすけていただこうと、よき人、法然聖人のお言葉をいただいて信じているだけで、そのほかに特別のわけなどありません。
お念仏が地獄におちる道だと、いいおどす人々がいるとのことですが、念仏がほんとうに浄土に通じる道(因)であるのか、それとも地獄におちる道(因)であるのか、私は一切知りません。たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄におちたとしても、わたしは決して後悔はいたしません。それというのも、ほかの修行をしていたら仏になれたはずの身が、念仏を申したばかりに地獄におちたとでもいうのならば、だまされた、という後悔もありましょうが、どんな修行にもたえられないこの私ですから、結局、地獄こそ定まれる住み家であるといわねばなりません。
しかし、このような愚悪の身を救おうという阿弥陀如来のご本願がまことであるならば、その本願を伝えるためにこの世に出現されたお釈迦様の説教がいつわりであるはずがありません。お釈迦様の説教がまことならば、その仏説に随順して本願念仏のこころをあらわされた善導大師のご解釈にうそいつわりのあるはずがありません。善導大師のご解釈がまことならば、法然上人の念仏往生のみ教えが、どうしてうそいつわりでありえましょう。法然上人の仰せがまことならば、その教えのままを信じているこの親鸞の申すことも、決してうそいつわりではありますまい。
結局のところ私の信心は、この通りです。このうえは、念仏の教えを素直に信じるか、それともお捨てになるかは、皆さん各自のお心のままになさるがよろしい、と仰せられました。
[第二章のコメント]
ドラマチックな法語です。あなたは何に命をかけていますか。「ただ念仏」とは唯一無二、これ一つという意味です。これ一つということは他のものは一切捨てるということです。
また、私は地獄を拒絶することができるほど立派な人間ではありません、と言い切られたこのお言葉には言いようのない凄みを感じます。
第三章 悪人正機のご本願
【本文】
一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報上の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
(「註釈版聖典」八三三頁)
【現代語訳】
善人ですら往生をとげるのです。まして悪人はなおさらのことでしょう。
ところが世間の人は、悪人ですら往生するのだから、まして善人はなおさらだ、といつています。この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力のおこころには背いています。
そのわけは、自分の力で善行功徳を積んで往生しようと思っている善人は、阿弥陀如来におまかせをするという気持ちのない人ですから、阿弥陀様のおこころにかないません。けれども、そういう人も、わが身の善をたのむ自力の心を改めて、阿弥陀仏の本願他力におまかせするならば、本願力の御はからいにより、真実の悟りの境界である浄土に往生させていただくことができます。
あらゆる煩悩を身にそなえている私どもは、どんな修行によっても、生死の迷いから離れることができないのです。そのような者を憐れんで、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏ですから、阿弥陀様にお任せするのが浄土往生の正しい道であって、自力の善をあてにする善人よりも、本願をたのみ、まかせきっている悪人こそがご本願の目当ての人になるのです。それゆえ、善人ですら往生をとげるのです。まして悪人はなおさらのことでしょうと、仰せられたことでした。
【第三章のコメント】
ここで言う「悪人」とは、法律とか道徳に反するという一般的な意味ではありません。煩悩を自分自身の力では到底脱することのできない凡夫、聖者でない者という意味です。
第四章 浄土の慈悲
【本文】
一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたれば、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたな大慈悲心にて候ふべきと云々。
(『註釈版聖典」八三四頁)
【現代語訳】
慈悲ということについて、自分の力で仏になるという聖道門の慈悲と、仏にお任せして仏になるという浄土門の慈悲とはちがいがあります。聖道門の慈悲というのは、自分の力で人々を苦しみから救いあげて、安らかなしあわせを与えようとすることをいいますが、このような慈悲は、どんなにがんばっても、思い通りに人々を助けるとういことは至難のことです。
浄土門でいう慈悲は、自分がまず本願を信じ念仏して、浄土に生まれて仏のさとりを得、その上で、思いのままにすべての人を救い、真実の利益を与えることをいうのです。
この世で煩悩のままに生きているかぎり、どんなに気の毒だ、かわいそうだと思っても、思い通りに助けることはできないから、聖道門の慈悲では人々を救うということはなしとげられません。そこで、本願を信じて念仏を申すことだけが、最後まで徹底した大慈悲心だといえましょう、との仰せでありました。
第五章 追善回向を超えて
【本文】
一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
(「註釈版聖典」八三四頁)
【現代語訳】
親鸞は、亡き父母への追善供養をするというような意味の念仏を申したことは、まだ一度もありません。
そのわけは、すべての生きものは、みな果てしもない遠いむかしから、生まれかわり死にかわりするうちに、お互いにいつかは父ともなり、母ともなり、また兄弟となったことがあるのです。だから、私がこの生を終わり、次の生で浄土に生まれ仏になったうえで、一人も残さずたすけねばなりません。
それに、念仏が自分の力ではげむ善根とでもいうのならその念仏の功徳をさしむけて父母に施し、助けるということも出来るでしょうが、念仏は仏様からのいただきものであって、自分の力の善根ではありませんから、念仏は追善の道具とはなりません。
ただ自力のはからいをすてて、本願他力に身をゆだねて浄土に生まれ、すみやかに仏のさとりを開かせていただいたならば、たとえ六道の迷いの境界にあって、どんなに悩み苦しみの世界に沈んでいたとしても、悟ったものの不思議な救済力とてだてにより、まずは縁ある者から救うことができるはずです、と仰せられました。
【第五章のコメント】
「歎異抄」の第五条は、念仏を回向して、亡き父母を救うとする追善回向とか、追善供養といわれるような念仏を否定されたものです。そしてその理由として、第一には、父母を救うということは、実は一切の有情を救うという意味をもつのだから、とうてい煩悩いっぱいに生きている凡夫にできるわざではないといい、第二には、念仏は、私どもの一人ひとりが生死を超える道として、如来からたまわった行であって、私が造った功徳ではないから、亡き者に施すことはできないといわれるのです。こうしてほんとうに人を救うということは、まずわが身が自力をすてて他力に帰し、浄土のさとりを完成したうえでのことである、とさとされた法語です。私たちが仏さまから何かをしてもらうことがあったとしても、煩悩いっぱいの私たちが仏さまとなられた方に何かをしてあげるということはありませんです。