御文章を拝読し味わう その1

■『御文章』とは
御文章は本願寺八世の蓮如上人が門徒に書き与えた消息体(書簡形式)の法語で、浄土真宗のみ教えの要義や信仰のあり方をわかりやすく平易に示したものです。真偽未決のものを除いて221通・この内80通を五帖に纏められていますが、ここでは特に親しまれているもの(管理者の独断により選定)をご紹介します。

[聖人一流章](五帖 10通目)
【本文】
 聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『註釈版聖典』1198頁)

【現代語訳】
 宗祖・親鸞聖人のみ教えにおいてお勧めくださるご趣旨は、阿弥陀さまから賜る他力の信心をどんな時でも根本とされておられます。もっと詳しく言うと、数々の自力の行というものをすっぱりと捨て去って、ただひたすら余念なく阿弥陀如来のお計らいにお任せいたしますと、如来さまの一人ばたらきで、私たちの知識や考えを超えた阿弥陀さまの本願力によって、必ず浄土に往生する身にしてくださるのであります。このように往生極楽が決定した位を、「一念がおきれば(信心をいただくと同時に)、正しく往生極楽が確定した仲間の身になる」とも説明するのです。そして、往生極楽が確定したうえは、自然に南無阿弥陀仏とお念仏を称える生き方となり、これは阿弥陀如来さまが浄土往生を決定してくださったことに対しての御恩返しのお念仏と心得、たしなまなければなりません。以上 まことに畏れ多く、尊いことであります。


[信心獲得章](五帖 5通目)
【本文】
 信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。これを『大経』には「令諸衆生功徳成就」と説けり。されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり。この義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対してかくのごとく沙汰あるべからざるところなり。よくよくこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『註釈版聖典』1191頁〜)

【現代語訳】
 信心をいただくということは、阿弥陀さまの第十八番目のご本願を深く聞かせて頂くことです。このご本願を深く聞くということは、如来が必ず救うと仰せの南無阿弥陀仏のいわれを深く聞かせて頂くことであります。私たちが素直に如来の仰せにまかせ、南無と頭が下がる一念のところに、我々凡夫を救わずにはおれないという如来の願いが同時に具わっているのです。このことが、阿弥陀如来より我々凡夫に与えてくださった救いのこころであります。このことを『大無量寿経』には「一切の衆生を漏らさず、浄土に往生せしめ仏になる功徳を与える働きが成就された」と説き教えられています。だから久遠の大昔から、積み重ねてきた多くの悪業煩悩をすべて残すことなく、我々凡夫の考えでは理解できない不可思議な阿弥陀如来のご本願の働きによって一度に消滅して下さるいわれがありますので、この身のままで正定聚不退という二度と迷いの世界に戻ることが無いという位に住するのだと言うのです。それで煩悩のある身のままで涅槃の悟りを開くべき身にさせて頂けるというのは、このようないわれがあるのです。この教えは、我が浄土真宗のみ教え を聞く者でないとわからないのです。他の宗派の人に偉そうに話して無用な誤解を受けないように注意が必要です。よく心得ておいてください。以上まことに畏れ多く、尊いことです。


[末代無智章](五帖 1通目)
【本文】
 末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『註釈版聖典』1189頁)

【現代語訳】
 末法といわれる五濁の世界にあって、仏法を見失い、煩悩のなすままに埋もれる生活をしている者は、男女の別なく、素直に疑いなく阿弥陀如来一仏をあてたよりにして、そのほかの神仏をたよりとしたり、目先の欲望に迷うことなく、ただひたすらに阿弥陀仏の必ずたすけるぞという法におまかせするのであるならば、たとえどんなに深い罪業を背負う身であっても、必ず阿弥陀如来は、お救いくださるのです。これが『大無量寿経』(仏説無量寿経)の、第十八願・念仏往生のご本願の約束の意味です。このように阿弥陀さまのお救いにあずかることが決定し、力強くこの人生を生き抜くことができる者は、寝ていようが起きていようが、この世で生きているかぎり生涯にわたって、南無阿弥陀仏とお礼の念仏を申して仏恩報謝の日暮らしをするものであります。


[白骨章](五帖 16通目)
【本文】
 それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。 すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、 たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『註釈版聖典』1203頁)

【現代語訳】
 そもそも人間の移り変わっていく浮き草のようなありさまをよくよく観(み)てみると、何といってもはかないものは、この世の生から死までのたちまち過ぎていく幻のような一生であります。だから、いままでに一万年も生きたという人がいるとは聞いたことがありません。一生というものは、あっという間に過ぎてしまいます。いままでに、だれが百年の健康な命を保った人があったでしょうか。私が先に死ぬのか、他人が先か、 死ぬのは今日かもしれないし明日かもしれません。人より遅れて死ぬ人も先立つ人もいますが、とにかく死ぬ人の数は、木の根もとのしずくや葉先の露の数よりも多いといわれています。  だから私たちは、朝には血色のよい元気な顔であっても、夕方には死んで白骨となってしまうかもしれないこの身なのです。  ひとたび全てのものが移り変わるという道理のなかで死の縁という風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じて呼吸も永遠に途絶えて、血色の良かった元気な顔も変わり果て、桃やすもものような美しかった容姿も消え失せてしまいます。それから父母兄弟妻子親戚などが集まってどんなに嘆き悲しんでも、どうしようもありません。泣いてそのままにはしておけないので、野辺送りをして夜半に火葬に付してしまえば、ただ、 白骨だけが残るだけです。悲しいといっても、なんともこんなに切なく悲しいことはありません。 だから、人間がはかないことは、老人だから少年だからということは区別が無い(老人が少年より先に死ぬとは決まっていない )のですから、皆さんどうぞいち早く、後生の一大事(自分の命の向かう方向性。死後には如来の浄土に生まれさせていただくにはという大問題。)を この人生の最大の課題であると心にとどめて、阿弥陀如来一仏をあてたよりにして阿弥陀如来に深く帰依し、念仏の日暮しによる確かな人生をお送りください。 以上まことに畏れ多く、尊いことです。


念仏の声を 世界に 子や孫に


随時追加いたします。暫くお待ちを(^。^)

『御文章』についての図書類については次のような図書がございます。お近くの書店からでも注文できると思いますのでぜひお読みください。

本願寺出版社・・・電話075−371−4171    →本願寺出版社出版物案内(リンク)
 
・「聖典セミナー御文章」  宇野行信 著    3000円  
・「御文章を聞く」   内藤知康 著      1680円  
・「御文章ひらがな版」(拝読のために)      735円  
・浄土真宗聖典(註釈版)           4000円    →本願寺出版社 聖典案内(リンク)
(価格は変更になっているかもしれません。ご確認下さい。)
お近くの真宗寺院にも足をお運びください。


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