ときどき、当方のメール相談に「水子供養をしたい」とか「浄土真宗で水子供養を行っている寺院を紹介してください」というメールをいただきます。 実はこれには、ちょっとコメントが難しいです。と言いますのは、浄土真宗では水子供養は行わないからです。したがって、どんなに探しても、浄土真宗の寺院で「水子供養」ということをうたっている寺院はこの世には存在いたしておりません。「浄土真宗では水子供養は行わない」と表現しますと少々誤解が生じるのですが、正しくは「浄土真宗では水子供養という名のもとに特別な法要・供養はいたしません。水子供養という特別な法要はございません。」と表現した方が正しいでしょう。 最近、昭和45年から全国的に展開されてきた水子供養のブームの影響で、水子の霊がどうのこうのと、いろいろな障りをもたらすと言って、その供養をさせる寺院や宗教が盛んに流行し、テレビなどのマスコミにも近年流行しだした新種の水子除霊・水子慰霊などと称する霊能者??たちがある程度面白おかしく取り上げられたりしています。水子供養を行いたいと思う原因は、流産なさった方、妊娠中絶をなさった方などさまざまでありますが、昨今の性の乱れなどの事情も手伝って水子供養なるPRが一部では一層盛んになっている状況です。当方にご相談なさる方は、それぞれ真面目で深刻です。では本当に水子供養が必要なのでしょうか?(水子という理由で特別な法要供養が必要なのでしょうか?) たしかに仏教の教理によれば、母親のお腹に受胎した瞬間が生命の誕生と考えますから、水子といえども生命の尊厳という点からは普通の人と同じということになります。ですから、この世に誕生してこないで生命終わっただけで、一旦は生命をもった立派な人間であったとみなければなりません。よく年齢の数え方で数え年と言うのがありますが、仏教で満年齢よりも数え年を用いるということも実はココに理由があるのです。従って、普通の人と同じように、この手に抱き上げることも無く終わった「いのち」、それも自分に一番近いわが子の「いのち」を重んじなければなりません。純粋に親として「何かしてあげたい」「供養を」というお気持ちは十分に理解できます。それが、本当に純粋ならよいのですが、自分に都合が悪いからと、鬼は外と自分の子を鬼にしてしまうのはいかがなものでしょうか? 世間では水子を供養しないと、私たちに祟(たた)られるなどというようなことを申しますが、断じてそのようなことはありません。祟るのは自分自身、障りの原因は全て私たち自身の心の中にあるのです。祟ると考える人たちの中には、なにかあると水子に責任転嫁するかのように、水子がたたるが如くいいますが、これは大きな間違いです。何か自分に都合の悪いことが起こると、すぐに「水子のせいで」と水子を悪者にしてしまっているのは、世間の脅かしに迷っている私たち自身なのです。 水子という用語も、本来、江戸時代とくに享保・天明・天保などの三大飢饉のときには生活防衛のためにやむなく「間引き」という農業用語が転じて用いられたほど、飢饉などで、出生後、口減らしで故意で殺害した子供に対する用語だったのが、現代(昭和45年頃から新たに生じた言葉ですが)では、主に人工中絶した子を指すようになり、その後は流産した子をも含むようになってきています。現在、浄土真宗以外の特に新種の水子除霊・水子慰霊商法の新興宗教的寺院等で行われている水子供養というのは、わずか20数年ほど前からできた新しい風習です。水子が「タタリ始めた」のも実はその頃からのようです。つまり単なる迷信、いや、単なる脅しであります。先祖供養と同様に世間で行われている形の水子供養など、実は仏教では一切必要ない世界です。その点に関しては、水子供養寺や霊能者と称する 者たちによる「霊感商法」「不安商法」という宗教とは名ばかりの脅迫宗教以外の何物でもないと思います。 ただ、いわゆる「水子」をつくると(自然な流産などの場合もそうですが、特に、人工的な堕胎を行った場合には)体調が崩れたり、人間関係などに亀裂が入ったりすることがあります。これは、タタリではありませんね。自らの行為の結果であったり、流産の場合も自然の摂理として縁無く命終わっていったのにすぎません。堕胎の場合は、理由はともあれ、ある意味、最も自分に最も近い生命である子供殺しでもありますからその事を自分に問う必要があります、もう一度見つめ直すべきであります。親の側の理由によって子供を「殺した」ことがあるならば、それはもう形ばかりの「水子供養」など、何の役にも立ちません。子供殺しの罪の償いこそが本当は必要なのです。と水子がたたるとお考えの方には、いつもこのようにお話しています。亡くなった水子が迷っているのではなく、生きている私たちが、実は迷いの存在なのです。他人の言うことが気になり、すぐに迷ってしまうのです。人間とは弱いもので、人生が順調なときは、自分は偉く強いつもりでありますが、一旦不調となると「あれが悪かったのか。これが原因では」と他に原因を求め迷ってしまいます。人間とは、実にもろく弱い存在です。私たちは、しっかり大地に足をつけて人生を歩んでいるつもりですが、実はそうでもないようです。特に、目には見えない悪霊とかの脅しには、科学的で知的なつもりの現代人の多くが苦しめられているのです。それは、亡き人を悪霊と化してしまっている私の側に問題があります。 悪いことがおきると、何かのせいにし、それが、先祖のせいであったり、水子のせいであったり、家相だ、印相だ、墓相だときりがありません。それを仏教では「迷い」と言います。 なお、法事は、亡き人を縁に勤められることから“亡き人のため”に勤めるものと思っている人がいます。「故人の霊魂(たましい)を慰めるためにお経をあげる」とか「法事を勤めることによってご先祖を安心させてあげる」といった認識の、いわゆる追善供養の意味合いです。しかし、浄土真宗では、亡き人は阿弥陀如来さまのお救いによって、すでにお浄土に生まれ阿弥陀さまと同じ仏さまなられて、今もおはたらきのはずです。したがって、水子を含め亡き人のために善をふり向ける(追善)必要もなければ、またそんなことができる“りっぱな”私達でもないでしょう。 法事というのは「仏法の行事」ということで、この仏法というのは、ほかでもない“私自身のため”の ものです。すなわち、法事の場に集まったすべての者が、一人ひとりが自分のこととして仏法を聞き、味わってこそ意義あるものとなるのです。亡き人を縁として、亡き人をを偲びつつ、私自身が聞いていく行事としなければなりません。ですから、通常の先立たれた亡き人と、流産した子や堕胎した子の命とを区別するような仏事はおこなってはなりません。 その意味で、浄土真宗は水子供養は行っていないと申すのであります。 多少、乱暴且つ乱文で恐縮ですが、以上が浄土真宗の考え方です。したがって、浄土真宗では世間で言われるような「水子供養」というものは行っていません。 以上をお読みになった上で、通常の先立たれた亡き人と区別することなく法要を行うことは可能なことです。お寺さんに法名をつけていただき、お仏壇の過去帳に記載し、通常の年回法要を行うことは、世間で言う「水子供養」とはまったく異なり、亡き赤ちゃんを縁として通常の仏事を営むというものです。それはそれで、浄土真宗的に仏事を営むことは可能であります。ご縁のあるお寺の住職に、堕胎した子や流産した子を縁として、仏法聴聞(ぷっぽうちょうもん=教えを聞く)の仏事を営みたいので、ご法事をお願いしますと言えば、住職も喜んで行ってくれるでしょう。法要は、お寺でも家の仏壇でもかまいません。お仏壇の無い方はまずは小さくてもご仏壇を用意し、ご本尊を安置するところからスタートでしょう。 (追記) 上記をお読みになられた若い女性の方でからメールをいただき少々考えました。 たしかに若い女性の方で、主に人工中絶で親にも内緒という方がご自身のお気持ちに区切りが付かないで苦しんでいる現状もありますよね。 親にも所属のお寺にも相談できないというのはある意味のでおつらいことと思います。 そのような場合に一つのご提案として申し上げますと、 例えばご本山の京都の西本願寺に詣でるとか、各地の別院に参詣し、「一座経」を申し込んで御自身だけで法要をされてはいかがでしょうか?他宗派の水子供養寺に行かれるよりはよいと思います。